昭和47年1月21日 朝の御理解 (末永信太郎)
御神訓一
信心してまめで家業をつとめよ、君のためなり、国のためなり。
そん次に、不浄のある時は先に断りおいて、願いあることを頼めよ、と。非常に難しい御理解です、御神訓ですかね。戦時中はこれが各教会に大きく書いて、いわゆるこの、神殿に貼ってございましてね。もう、それを焦点に、まあ、信心するといったような、まあ、この御神訓が当時クローズアップされたわけですね。で、終戦になりこの方、この御教えは急に、この反対の、これは実際はなくても良いんだ、というような説さえあるくらいになったんです。第一、君のためなり、国のためなりなんていうのがね、その、今の時代に生きる人達の一つの感度というか、感覚にピタッと来ないわけなんですね。
もちろん、ここでは君のためなり、いわゆる、(忠君?)愛国を、ように唱えておった時代のことでございますけどね。いわゆる、君ということが、まあ、私どもとしては天皇陛下ということでしょう。国というのは、大日本国と、こう申しました。の為に、善人は一生懸命働けよ、と。ね、自分の家業を一生懸命勤めることぞ、と。それをそのまま、天皇陛下のいわゆる、忠魂愛国の心を持ってということにだけ取られておったところに、まあ、現代の人達の方にピタッと来ないというわけでございましょうけれども。
私は信心が段々、こう分からせて頂けば頂くほど、信心してまめで家業を勤めよ、君のためなり国のためなり、と。神ということを、(こうじょう)と書いてますね。(すすめら?)ですか。だから、君は神の、神と上は同じ意味だと教祖は説いておられます。ですから、やはり、だから君のためなりということは、天皇陛下の御為というような風ではなくて、やはり神様のお喜び頂けることのために、ということになりましょうね。国のためということは、日本国というの意味じゃなくて、社会のためにということになるでしょうね。社会に貢献すると、こう申します。
ですから、やはり信心というのは、どうでも、もうそこにね、焦点が置かれなければ、正しい信心とは言えない、と。その次に、只今、まあ、読ませ、その次の御神訓に、不浄のある時は先に断りをおいて、願いあることを頼めと仰る。もちろん、不浄ということは、例えば、黒不浄とか赤不浄とかといったようなことを申しますけれども、お道ではそういうことではない。赤もなければ黒もない。ね。
四神様などは、不浄ということは、成就しないことぞ、と仰っておられるくらいですね。二代金光様は、不浄ということは、成就しない。だから、神様に願ってもすがっても成就しないようなことをいくら願っても駄目だ、と。それでもやはり、私どもは願わなければおられないことがいっぱいあらうんだ、と。ね。
そういう時にはね、先に断りをおいて願いあることを頼めと仰った。この辺のところが素晴らしいと私は思うですね。ね。そのことは、例えて言うなら神様がお喜び頂けれることとも思われないことがある。ね。これが社会のために貢献するといったようなことでもないと、ただ、自分の我情のために我欲のために願う、すがるということもある、と。でしょうが、痛ければ痛うございます、痒ければ痒うございます、と。
ね、自分の借金の言うならば債鬼に責められるとでも申しましょうか。時にはね、もう本当にたまらんから、どうぞ助けて下さいという時なんです。そういうことは、だから、本当を言うたら、私はその、神様がお喜んで下さることでもなからなければね、社会に貢献することでもないと思うんですよね。
いわゆる、君のためにも国のためにもならない。ただ、今、私が苦しいから、その苦しいところから抜け出たい、抜け出たいの一心が、どうぞ神様と、こう願う。ね。それは、神様のみ心ではないから、言うならば成就しないようなことです。また、まあ、極端に申しますとね、例えば、その、彼女に会いに行くという時でも願う。はっは。ね。まあ、それがその、願えれる信心なんです、金光教は。ね。
けれども、それがね、その、人間生身を持っております、凡夫のことでございます、と。ね。ですから、こういう願いでは神様のお心には叶わないことでございますけれども、先に断りをおいて願うちゅうこと。ね。この辺のところが、私はあの、何ちゅうですかね。言うなら、まあ、大衆に受ける内容というものを持ってるわけですね。氏子身上のこと何なりとも実意を持って願え、と。それは、五穀豊穣、牛馬のことに至るまでと言うておられます。ただその、実意を持って願えと、こう仰っておられる。ね。
いわゆる、本当な心を持って願え、と。だから、本当に私は、信心はまだ分かりません。ですから、分かりませんけれども、言うならば私の我情のために、自分の思いのため、自分の我欲のため、ただ自分の思いが成就さえすれば良いという一心、一念で願っておることなどの場合です、やはり、先に断りをおいてということが大事。そこでですね、この、新しい御理解に、今朝、こんなところを頂くんですよね。読んで見ましょう、これは新御理解です。
神があって氏子、氏子があって神じゃによって、病気病難をはじめ、何事でも非常平常に関わらず、ね、非常平常の中でしょう、非は非常時の非ですね。平常とは普段の時という意味でしょう。ね。非常平常に関わらず、神に祈りをかけよ、と。信心は字に書いても、神の心と書くから、常平生、神様のお心のようにして信心するのが信心じゃ。簡単に言うてありますけど、もう、大変難しいことですよね。
神様の心のような心で信心せよとあります。いわゆる私が言う、神の心を心としてとか、ね、天地の心を心としてということを、ここでは言っておられますね。(信心、信心 信心)。手を合わせて拝むばかりが信心ではないぞ、と。一心とは字にも一つ心と書くから、二心のうろたえ心を出さずに、天地金乃神一筋に取りすがる一心じゃ。全て、十分のおかげは神心と一心でなければ取れぬぞ、とあります。
神があっての氏子、氏子があっての神じゃによって、と。だから、神様もこの辺のところをちょっと弱いんですね。弱いちゅうか何て言うでしょうか。ね。神様だと言うて、その、こう、言うなら、(たかまのはらに)神止まってござるという神様ではなくて、氏子があっての神なのだ、というところに、あの、お道の信心があるわけですけども。ね。神があって、氏子があっての神だ、神あっての氏子。
いわゆる、あいよかけよで立ち行くことのためにならばです、それが、例えば天地の道理に叶わぬことであっても、なら、氏子のそれが我情であっても我欲であっても、ね、まあ、今日の御神訓から言うと、そこんところを断りをおいて、願いあることを頼めという。だから、これで終始する人があるんですよね。ただ、願う時だけ、頼む時だけ、自分の都合のよか時だけの信心ちゅうのがこれなのです。ね。
たしかに、それでもおかげを受けるんです。ね。けれども、それでは信心にならない。どこまでも、一つ私どもがご神意を体して、いわゆる神の心と、こう。信心とは神の心と書くがと、こう。ね。だから、神様のお心のようにして信心するのが、信心じゃ。そこで、まあ、ここ2~3日頂いております、そのお道の信心が生神を目指すという、生神ということを使っておりますが、そういう心にならせて頂いて信心するということが、合点が行きますですね。手を合わせて拝むばかりが信心ではないぞ、と。手を合わせて一生懸命拝む。拝むことだけは拝む、なら、それでもおかげは受けますけれどね、それでは、信心ではないぞ、と。
一心とは、ね、字も一つ心と書くから、二心、あの人にも頼みゃ、この人にも頼み願うというようなことでは、一心とは言わん、と。十分のおかげは神心と一心でなければ、ね。本当に神様の心と一つ、しかもそれが、一心不乱でなからなければならん。乱れておっては、心が乱れておってはならん。それは、十分のおかげを頂くためには、そこんところを頂く為に精進させてもらわなければならん。
そこでです、信心してまめで家業を勤めよ、というところ。ね。だから、信心はしながら、ただ自分の我情我欲のために一生懸命働くということではないのです。ね。信心してまめで家業を勤めよというのは、君のいためでなからなければならんのであり、国のために繋がっておらなければいけないということなんです。ね。お百姓するでもよかろう、商売するもよかろう、勤めるのもよかろう。ね。
女の方が家事万端の上にお使い回しを頂くということの上においてもです、ね、ただ家業を勤めておるというだけではなくて、その家業そのものが、ね、君のために国のために繋がっておらなければならない。そういうところの、例えば同じ働いておりましても、いわゆる、今日は君のためということを神ということね、神様のため、と。国のためということを、社会のためという風に聞いて頂いとります訳ですけれど。ね。
いわゆる、現在の金光様がいつも仰っておられますように、ね、例えば自分の家の門口を履かせてもらうでも、ね、ただ自分の家の前がきれいになれば良いという考え方ではなくて、世界の一部が清まっておるんだという心持ちで履くのだということなんです。ね。そういうことになって来ると、自分のところだけ履いとって、他所の方に全部(はねこり?)散らかすといったようなことは出けません訳です。ね。
それは人の前までは履いてはやらないでもです、やはり、そこにきれいにゴミは取らせて頂く。自分の家の前だけでもです、それは世界の一部が清まっているんだという心持ち。そこんところをです、私どもが間違いますとです、自分道さえきれいになりゃよかと言うてから、もう人が見とらんとどげなこっでんする。
ね、人の前には、その、はねこり散らかしといてから、自分ん方ん前だけ清まっとれば、きれいになっとれば、もうそれで悦に入っておるという、これはお掃除だけのことじゃありません。金や他のことだってそうです。人が損しようがどうしようが、自分な儲けることのためならば、もう、それこそ鬼にでも邪にでもなるちゅうごたる人がありますよね。もう、絶対これじゃ繁盛しませんです。
繁盛しとるごとあったっちゃ、それはもう、つかの間です。いや、それでかえて、難儀苦労せなきゃならん元をつくるだけです。神の機感に叶わんからです。だから、いくら働いても、いくら頑張らせて頂くことも有り難いけれども、それが社会にね、貢献するものでなからなきゃならんということ。だけではない、神様が喜んで下さるというもんでなかにゃいかん。
君のためなり、国のためじゃなかにゃいかん、と。神様が喜んで下さるというところにです、そこで、なら神様がどういうことにならせて頂けば喜んで下さるかということを分からせて頂くために、神の心を分かれということ。それを、ここでは天地の心を分かれと、こう言うのです。言うならば、天地の法則を知れ、ね、本当のことを知れ、真理を知れ、と。
例えば、昨日辺りのでしたか、此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと教祖が仰る。例えば、この喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんという、そこにはもう、絶対の大真理があるんです。喜べば絶対、喜びには喜びの花が咲いて、喜びの実が実るという、もう絶対のものがあるんです。
ね、それを、例えばなら、(吟じてますと?)、それこそ厚い厚い沢山な本にしなければならないほどしの、その理があるわけなんです。ね。そこを私どもは純粋にね、喜べないところでも、もうそれこそ、喜ばせて頂くけいこを本気でさせて頂こうと、こう言うのである。ね。私どもが、ね、例えば今、様々な家業の行をさせて頂いておるが、この、今しておることが、行うておることが、自分の心の中に思うておることが、ね、はたして神様のお心に叶うことであろうか、喜んで下さることであろうかと、やはり、自分の心に一問一答してみるような気持ちが必要ですね。
ただ、自分の前がきれいになりさえすりゃよか、と。ね。なるほど、それは人の分までは出けないに致しましても、そこにです、世界の一部が清まっているんだというような心持ちでお掃除をさせて頂けと、こう言うのである。そういう心持ちでやったら、とても他所の家の前にポンとこう、ね、履きつけるようなことは良うも出けませんでしょう。
私は信心になるということは、そういうことだと思うです。ね。そうならないけません、そうならにゃ人間は幸せになれません。ね。ただ、自分のことだけ。まあ、ここんところを君のためなり、国のためなりというところを、いつでしたかね、御理解に(出た?)。君のためとは、お前自身のためぞ、という風に頂いたこともありましたね。だから、お前自身、氏子自身のためになるということは、どういうことだろうか、と。ね。人が持っとる茶碗でも叩き落してからでも、いわばおかげを受けるということが、はたして君のためになるだろうか。なったごとあるけれども、絶対ならん。
それは、君がまた苦労をしなければならないために、ということになる訳なんです。君のためということは、ね、氏子自身のため、氏子が本当の意味において、ね、極楽往生が出来ることのためにですと、いわば。(金無常?)というのは、繋がっておらなければならない。何事にも信心になれよと、何事にも信心になれよという言葉がありますですね。ね、それでもです、ね、例えば本当に自分の我情我欲のために、ここはどうでも助けてもらわにゃというところもあります。ね、そういう時にはです、先に断りを置いてが必要なのです。ね。その先に断りを置いてという、私はその謙虚さがですね、おかげに繋がるのだと思いますね。
そりゃあ、まあ、厳密に言うてです、ね、私どものいわば生まれた時には、もう金光様の御信者であったわけですから。ね。もう、だんだん(ちょうど?)にしたがって、いわゆる金光様なしには生きられない、金光様のおかげで助かってるんだ、と。お商売をするでも、もう、売るも買うも神様にお願いをして。けれども、一つもそれがね、その、社会に貢献すると、神様が喜んで下さるような心ではなくて、やはり願いさえすればおかげを頂いたと言うんですから、やっぱ、それで何十年間という間は過ごして来たですね私も。 それは私が北京時代などの場合は、例えばもう、その集金に行くに致しましても、ね、金策のことにしましても、まあ、電報一本でお願いをする。もう、電報を打ちに行く時にはおかげの印が見えるような感じでしたね。我情我欲。ね。なら、その代わりに、ね、その間いくら儲かったら、いくらお供えしますちゅうごたる風な、まあ、言うなら(みやだけ?)さんのごたる信心ですたいね。
( )のように一遍参っとってから、商売繁盛させて頂いたら、ね、そりゃ、昔の金で一万円もお供えされた( はいちゃるでしょう?)。それで、もう神様との取引は済んだような感じですね。儲けさしてもろうたけん、いわば一万円、ポンとお供えした、と。
そんなら、誰でもだいたい出来ますことですけれどね、私ども、金光様の御信心を頂いとっても、やっぱそんな傾向の時代が何十年間、やっぱ続いております。けれどもそれが、んなら、花にはなっても一つも実になっていなかった証拠に、裸一貫で引き上げて来んならんという事実があったわけです。儲かりましたずいぶん、ほおら、もう本当に、このまま行くならば本当に大した財産が出けるだろうと、ね、言うならそういう時代がありましたけれどもです、けれどもそれは、一つも実つかなかったということです。
だから氏子がね、願うから、一心にこう願うから、おかげを受けるというおかげは、もう頂けますけれどもです。その願うそのことがです、ね、神様に喜んで頂く。いわゆる、君のためにも国のためにもなる。それに繋がっておる、いわば儲け方でなからなきゃいけないということ。
これは、儲ける儲けないだけのことじゃありません。健康においても然り、どうぞ治して下さい、と。ね。もう、医者が見離した病人でもです、ね、一心を立てておすがりをして、おかげを受けますけれどもです、ね、おかげを受けただけでは何もならん。ね。そこで私どもがです、ね、おかげを受けた暁には、ね、私がここにまた健康のおかげを頂いたら、その健康を持って神様に喜んで頂くことに奉仕するため。ね。
健康になったばかりに、腕力を振るう。健康になったばかりに、親不孝するというのでは駄目ですからね。ここにもありましたように、息子さんが肺病でいよいよ助からん、粟粒結核で。ね。そこで、親がみえました。一生懸命、お母さんが参ってみえました。おかげで不思議に、それこそ医者がたまがるように全快のおかげを頂きました。ね。そしたらね、健康になったら不良仲間になってからね、しかも村内の牛泥棒ばしました、その人が。もう、それこそお母さんがここへ来て嘆きますもん。
先生、あん時、助けてもらうもんじゃなかったと言うて。もう、あん時死んどったが良かったと言うて嘆かれました。ね。ですから、確かにその粟粒結核で助かったということもですよ、やはりおかげなんですけれどもね、その助かったことが、かえって結果においてね、牛泥棒するようなことになったら、どんこん出けませんもんね。ね。それでは、人間の幸せにも繋がらなければ、神様が喜んで下さること、いわゆる君のためにも国のためにも繋がらないのだ。ね。
そこで私どもがおかげを受けなければならない、その前提としてですたい、ね、それは我情かも我欲かも分かりませんけれども、おかげを頂いた暁にはです、本当に神様に喜んで頂くような生き方に変わらせて頂くことが条件に、例えば願うといったようなことはです、不浄のある時は、ね、先に断りをおいてということは、そういうことじゃなかろうかと、こう言うのです。
そういうことでは成就しないということは、私どもの願いは成就しても、神様の願いが不成である、神様の願いが成就しないということなんです。ね。ここでも、ね、氏子あっての神、神合っての氏子というのが、金光様の信心の立て前なのですから。私どもの願いが成就するのではなくて、神様の願いも共に成就して行くという願いでなからなければならない。ね。
しかも、ね、神心を分からせてもろうて、一心とは二心のない、うろたえ心を出さずに天地金乃神一筋に取りすがるのが一心じゃ。全て十分のおかげは神心と一心でなければならん、という風になって参りますわけです。信心してまめで家業を勤めよ、君のためなり、国のためなり、と。
まあ、こう、ただ頂いただけでは、なるほど、現代の私どもの考え方ではです、ピンと来ないような感じが致しますけれども、今日の御理解を頂きますと、なるほど君のためなり、国のためなりに繋がっておる家業でなからなければならないということになります。ね。
けれども、私どもはやっぱり、止むに止まれないことがございましてね、色んな。いわゆる、我情が出てまいります、我欲が出てまいりましてです、それでもやはり、願わなければおられない時には、先に断りをおいて願うのです。ね、それは神様の願いが成就することではない、ただ、私個人のことの成就ではありましてもです、再に断りをおいて頼むというような実意さがここでは必要になる。
そして、段々分からせて頂くことは、不成のある時はという、ね、神様の願いも成就する、私の願いも成就する、両方が成就することのための願い。家業においても然り、ね、私どもがさせて頂いておる様々な持ち場立場というのがありますけれども、その持ち場立場においてです、そのことが君のために、国のために繋がる家業の行でなからなければならないということをです、ね、分からせて頂いて、信心に精を出させて頂かなきゃいけないという事になります。
神様と私どもの、言うならばこの間柄というか、それが、親であり子であるということになって参りますとね、大変また変わって参ります。実際はそうなのですけれども、それをそうと分からん。ただ、お願いをするだけの神様と、言うならば、まあ、兄弟がともなからなければ、従兄弟がともないぐらいな態度に神様を頂いておる人も沢山あります。天地金乃神様というのは、私どもの本当のいわば親なのですけれども。
その、親であるということが分かりません。段々分かってきて、切ろうとして切れるものではありません、親子の縁というものは。ね。ですから、それが本当の親子になってまいりますとです、私どもがおかげを受けるということがね、そのまま、親がおかげを受けるということにも繋がるのです。
昨日、私の両親が椛目の方にこの改築がきれいに出けまして、お道具なんかも、見事なお道具を沢山頂いておりますから。一遍、見に行きたいと言うので、私が一緒に高橋さんの車で椛目にやらせて頂きました。もう、見違えるようにきれいになって、まあ、おかげを頂いておりましたが。ね。
本当にあの、両親の喜ぶこと、ね。別に両親は何をもらった訳じゃない。ただ、自分の娘のところがきれいになったり、大変おかげを受けておるということが、それこそ、もう涙を流して、どの部屋に行っても座り込んでは御祈念をし、座り込んで御祈念をしながら喜んでおります。
もう、本当に親先生、貴方のおかげで本当、おかげを頂いた。私に、もう、本当に親先生と言うてから、親先生が喜んでお礼を言うてくれました。ね。これは、本当の親子だからなのですよ。ね。だから、この辺ところが非常にデリケートですね。
私どもが本当に信心を分からせて頂いて、本当に親だ、子だと名乗りをあげて、いや、名乗りをあげてて言うか、本当にそこが分からせて頂いて、そして私どもがおかげを受けるということになって参りますとです、そう一つひとつ道付けをしなくてもです、というかね、はあ、自分の今やっておることが神様の機感に叶うとか叶わないとかなんて、いちいち考えなくったってです、問題は私がおかげを頂きさえすればです、もう、親の助かりに繋がっておる訳です。けれども、これは実を言うたら大変難しいこと。
いかにも天地金乃神様という親神様と言うておるけれどもです、ね。それこそ、おかげを頂かなかったら、スパッと止める人があるでしょう、あれほど天地の親神様と言いよってから。もう、親子の縁を切ってしもうとる。だから、本当の親子じゃなかったということになる訳なんです。ね。
例えば、どのような場合であっても、切ろうとして切れるものではない、その神様と私どもの間柄というものが、そこまで密なものになって参りますと、これはまた、ちょっと変わって参りますですね。私がおかげを頂きさえすりゃ、親が喜んでくれるということになる訳です。
ね、だから、その前提としてですね、私どもがおかげを受けるというそのおかげがです、はたして神様の喜び、君のために親のために、言うならば、神様がお喜び下さることのために、社会のために繋がり、貢献が出けるかどうかといったようなことを確かめながらね、おかげを頂いて行くことが先ず前提になるわけですね。どうぞ。